東日本大震災ルポ「天命」(下) 語り継ぐべき情報 ―広報担当者の1時間

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2013-01-29

 岩手県の陸前高田市は、津波で市庁舎の屋上近くまで浸水した。職員295人のうち、死者・行方不明者は68人にものぼる(※5)。約4分の1だ。それを考えると気が引けたが、恐る恐る、3月11日の地震発生時の様子を企画部協働推進室の大和田智広氏にうかがってみた。

広報担当者の1時間

 3月11日。その日は広報紙の校了日だった。

 陸前高田市内に保育園が新設されることを伝える記事に、子どもたちの笑顔の写真を載せたかった。取材用のカメラを手に、車に乗り込んだ。

 車を走らせて間もなく、大きな揺れを感じた。震度はわからなかったが、経験したことのない大きさだと直感した。取材はあきらめ、役所に引き返した。

 役所に戻ると、市庁舎の壁には亀裂が入り、たくさんの人が外に出てきていた。何も情報がない中で、ワンセグ(※6)で得た情報は、大津波警報だった。その後、防災無線が大津波警報を知らせていた。しかし、震度も震源もわからないままだった。

 上司に相談したところ、「津波が来るかもしれないから、高台に行って津波の写真を撮りなさい」と言われた。そこで、午後3時過ぎたころだったろうか、高台に向かうことになった。

 その時、子どものころから学校で教えられていたことを思い出す。津波から逃げるときは車を使ってはいけない。渋滞を避けるためだ。津波は、地震発生から30分程度で来るとも教わっていた。既に15~20分たっている。高台までは1キロある……全速力で高台への道をかけ上った。移動中、不思議なことに、避難する車も人もほとんど見かけない。自分が逃げ遅れているのだろうか。あるいは、みんなが避難をしようとしていないのか……わからなかった。

 高台に上りきったところで、カメラを構え、まずは津波が来る前の状態を撮った。間もなく、津波は来た。15メートル級の波が市街地に向かって「平行移動」してくる。津波は、普通の波のようにザブンと降りかかるものではない。まるで厚い壁のように、すべてをなぎ倒し、飲み込んでいくのだ。

 陸前高田のまちを襲う津波の写真

大和田智広氏撮影(2011年3月11日)

 これは本当に自然現象なのだろうか。CGや映画のワンシーンみたいだ。現実とは思えない光景……夢中でシャッターを切った。

 市庁舎は死角になっていて見えなかった。
 連絡を取ろうにも、電話もメールもつながらない。

 多くの犠牲者が出る。もうダメだ……と思った。

 目の前が海になっていた。

自責の念

 「目の前が海になってしまったんです。あれを見たときは……う~ん……もう……」大和田氏は言葉を失った。心の傷をえぐってしまったようで、かける言葉がなかった。しばしの沈黙の後、氏が絞り出すように言った。

「生存している職員に聞いても、『波が見えたから屋上まで逃げて助かったものの、あそこまで来るとは思っていなかった』と口々に言います」

 市庁舎から海岸までは約1キロメートル。平坦な地が続く。しかし、間に建物がたくさん並んでいるので、海岸から遠いように錯覚する。津波が屋上まで来るとは予測していなかった人が多いようだ。

「私は悲観的に考えていました。とんでもない被害が出ると。みんなも私と同じように考えていると思い込んでいたので、市庁舎を出るときに『ここは危ないよ』なんて言わなかったんです。回りに注意喚起をしないで高台へ行ってしまって、結局、多数の同僚の犠牲者を出したことを、ひどく後悔しています。私の隣の席に座っていた上司も亡くなりました」

 氏は適切な判断で無事に避難し、それ以降、地域のために寝食を惜しんで働いた。3月11日以降、1週間は、食事も睡眠もろくにとれなかった。夜はパイプ椅子の上で膝を抱えて寝た。しかし、それでも自分自身を責めているような印象を受けた。

「私たち市職員は、市民を助けなければいけません。高齢者や障がい者を助けようとして、一緒に流されてしまった若い職員もいます。自分だけ助かろうと思えば、若い職員なら十分に階段をかけ上がれる体力はあったのに……1人でも多くの市民を助けようとして、市民も職員も、どちらも亡くなってしまったんです」

 亡くなった同僚のうち、深い交流のあった職員については、1軒1軒、弔問したという。そのたびに、自責の念に駆られていたのではないだろうか。

 「私は自宅が流されただけで、家族は無事でした。でも、大切な人を失った同僚、独りぼっちになってしまった人がたくさんいるんです。私には妻も子もいません。なぜ、自分のような者が生き残ったのか……」。氏の言葉の端々に、まるで「生き残ったことが申し訳ない」と思っているような表現が見受けられる。

 亡くなった職員はさぞ、無念であったろう。しかし、生き残った職員も、追い詰められた精神状態にある。これは、復興支援のために派遣されている他自治体の職員も同じなのではないだろうか。筆者は、被災自治体職員の過酷な状況に対する認識が甘かったことを思い知らされた。

生かされた命

「生かされたのは、神のいたずらかもしれない。ふとそう思いました。これは『天命』なんじゃないかと。だから、生き残った人々のために、遺族のために、命がけで働いたんです。また、ほかの地域で万が一災害が起こったときに、まっさきに支援に向かい、役に立とう。その時こそ、この経験をいかせる時だ……そう思うようになったんです」

 筆者は言葉を失った。「がんばって」、「自分を責めないで」、「あなたは、生きている価値がある」。そんな言葉には、もはや何の力もない。すべてを飲みこみ、大和田氏の言葉に耳を傾けた。

「もう誰にも、こんな思いはさせたくないんです。もう誰も、津波の犠牲にしたくないんです。だから私は、残りの人生を、与えられた命を、地震・津波対策に捧げると決めたんです」

 その悲壮な決意を聴いて、筆者は、はたと我に返った。首都直下地震ではなく、東日本大地震だったのだ。考えようによっては、筆者も「生かされた」一人だ。それにも、きっと意味があるのだろう。

 筆者は、津波が何メートルかを聞いても、それがどれだけの破壊力があるのかはイメージできない。どんな事態に陥るのか、想像できない。でも、陸前高田市役所の旧庁舎を見て、大和田氏の話を聴けば、わかる。これを、一人でも多くの人に伝えなければならない、と思った。

 筆者は元自治体職員だ。広報担当だった。今は文章の研究者として生きている。そんな私にしかできないことがある。私がやらなくてはならないことがある。それは、写真を撮ることだけではない。この目で見たこと、聴いたこと、感じたこと、人々の「想い」を文章にして、自治体職員に伝えることだ。生き残った自治体職員の背負った十字架を、少しでも軽くするために。仲間の命を守り、ひいては市民の命を守るために。

 メディアに取り上げられ、一躍有名になった「奇跡の一本松」(写真)。その保存に寄附金を使うことに対して、批判もある。しかし、大和田氏は言う。「一本松は、私たちの希望なんです。海岸の松林と砂浜には、子どもの頃からの思い出がたくさんあります。いつかまた、あの時のような高田松原に戻ることを信じて、一歩一歩、力を合わせて進んでいきたいと思っています。いつか、一本松のある、あの砂浜で、また海水浴ができる日が来ると信じて……」

岩手県陸前高田市のフェイスブックページ「奇跡の一本松保存募金」ページへのリンク
画像をクリックすると「奇跡の一本松保存募金」ページにジャンプします

 東日本大震災から1年経った3月11日、多くのメディアが陸前高田を訪れた。そしてその後、パッタリと来なくなったという。しかし私たちは、後世に伝えなければならない。100年、1000年後の子孫、市民、自治体職員に語り継がなければならない。

(了)

補注

※5
 職員数(平成23年3月11日現在)は、陸前高田市総務課発表による。
 死者・行方不明者数は、「地域防災計画における地震・津波対策の充実・強化に関する検討会報告書(平成23年12月)」(総務省消防庁)の「主な被災3県の沿岸市町村の庁舎及び職員の被災状況」(主な被災3県を通じて、沿岸市町村の庁舎及び職員(一般行政職(消防職員を除く))の被災状況を調査。平成23年12月21日(水)現在)による。

※6
 <ワンセグとは、地上デジタルテレビ放送のモバイル機器向け放送サービスのこと>。<地上デジタル放送と同様、映像と同時にデータ放送も受信>する。<携帯電話とは異なる電波を使用しているので、携帯電話の通話可能エリアとワンセグの放送エリアは異な>る。そのため、携帯電話が不通であっても、視聴できるというメリットがある。(NTTドコモのサイトより)

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