東日本大震災ルポ「天命」(上) 市民の求める情報 ―広聴広報担当者の51日間

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東日本大震災ルポ「天命」(上) 市民の求める情報 ―広聴広報担当者の51日間

2013-01-28

2012年11月12日、宮城県気仙沼市での取材を終えた筆者は、岩手県の陸前高田市に向かった。県境を越えるものの、距離的には近い。

しかし、激しい雨に見舞われた。陸前高田市には、大雨・洪水警報が発表されていた。車のフロントガラスに激しくたたきつける雨。数メートル先が見えない。ときどき、大きな水しぶきが上がる。道路が冠水しているようだが、それすらよく見えない状態だった。

車の運転を同行者に任せていた筆者は、その様子をフェイスブックに投稿した。すると、取材先の陸前高田市の職員が、「気を付けてお越しください。地盤沈下により、道路がところどころ冠水しています。国道は比較的安全ですので、そちらをご利用ください」と、即座にコメントをくれた。

後で聞いたことだが、津波の影響で水はけも悪くなっているらしい。そういえば、排水溝から雨水が逆流していた。

豪雨にもかかわらず、無事に陸前高田市に到着することができた。取材時間にはまだ間があったため、陸前高田市役所の旧庁舎を探してみた。

途中、何度か「陸前高田市役所の旧庁舎はどこですか」と聞かれた。まるで観光名所にでもなっているかのようだ。

しかし、旧庁舎にたどり着いたとき、筆者は凍りついた。あまりのむごい状態に、写真を撮ることすらはばかられた。
無残に引きちぎられた建物。庁舎の中でぐちゃぐちゃにつぶれた自動車。遺体発見場所を示す、赤い○印。入口に手向けられたおびただしい数の花、線香、折鶴……筆者はついに、レンズを向けることができなかった。

 

いつのまにか、雨は止んでいた。虹がかかっていた。旧庁舎の背後に広がる山々と、駐車場にたくましく咲くクローバーの花だけを写真に収めて、高台にある仮庁舎に向かった。

取材に応じてくれたのは、陸前高田市企画部協働推進室の大和田智広氏だ。

氏は、たったひとりで広聴と広報の両方を担当している。
東日本大震災時の広報業務だけでなく、広聴業務についてもお話をうかがうことができた。

市民の求める情報 ―広聴広報担当者の51日間

陸前高田市は、地震発生後1週間が経過した3月18日から、臨時広報紙を発行した。停電で、ラジオと新聞からしか情報を得られない状況下では、やはり紙媒体による情報提供が有効だ。

また、岩手県全体の情報では広域過ぎて、地域のインフラの状況までは伝えきれないため、市に特化した情報が必要だったこともある。

大和田氏は、3月17日の午後から、災害対策本部一階の窓口に立った。一日中ひっきりなしに訪れる市民の質問、相談に応えた。

同日、臨時広報紙の作成を始め、翌18日に第一号を発行した(図)。窓口で受けた質問・相談のうち、共通の質問を「Q&A よくあるご質問」として臨時広報紙に掲載した。

第1号に掲載した、被災後1週間で最も多かった質問・相談、すなわち市民の関心事は、次のようなものである。

——————————
Q1.一般車両のガソリン・燃料の調達は?
Q2.紙おむつやミルクなどの生活用品の調達は?
Q3.水道・電気・ガスの供給のメドは?
Q4.携帯・固定電話通話エリアは?
Q5.薬はどうなっているのか?
Q6.透析の患者の移動はどうすればいいのか?
Q7.遺体の安置所は?
Q8.死亡届はどうすればよいか?
——————————

「毎日、発行する」と決めていたわけではないが、結果的には、5月7日までの51日間、毎日発行した(※1)。

「毎日出さないと追いつかないんです。これだけ被災すると、元に戻ろうとする力も強いんですね。毎日、新しい情報があって、1日の中でも刻々と状況が変化します。それを伝えようとしたら、結果として毎日発行せざるを得なかったんです」と氏は言う。

1日中、質問・相談を受け、その晩、広報紙を作る。そんな日々が始まった。

毎日午後6時頃になると、あたりが暗くなってくることもあり、自然と相談者が来なくなる。それから広報紙作りが始まる。
その日に受けた質問や相談から記事を作り、上司に相談。午後9時くらいまでに初稿を完成させ、11時頃原稿確定。
時には、深夜2時をまわることもあった。それでも、朝5時には起きて広報紙の印刷に出かける。

災害対策本部となった学校給食センターには印刷機がなかった。そのため、近くの中学校まで出かけ、数千部を印刷する。
それを避難所ごとに仕分けし、朝8時くらいまでに自衛隊のジープに積んでもらう。自衛隊は、物資と一緒に各避難所に運ぶ、という手順だ。

そんな日々が51号分続いた。

「今考えてみると、自分でもよくもったと思います」と大和田氏は言う。当初の配布部数は2500部程度だった臨時広報紙が、最終号は7500部となった。

最終号の発行にあたって、市民からは次のような声が寄せられている(※2)。

——————————

ほんと頼りになった。

手続き…たくさんありましたから。。。
生きるための情報…たくさんありましたから。。。

(中略)

臨時広報を作り続けたスタッフの皆さん(陸前高田市企画部協働推進室)、ご苦労様でした。
ほんと助かりました!
(全号保存してます)

——————————

すべての質問・相談に大和田氏が応えられるわけもない。その都度、担当者のもとへ走った。
市の仮庁舎は1課1プレハブという構造であり、トランシーバーを使うか、走って聞きに行くかしかなかったからだ(※3)。

自ら各課の職員に取材して書くこともあった。市民が知りたい情報を伝えることを重視した。そうしなければ市民が不安になり、問い合わせが増え、結果として職員の仕事が増えることになる。
また、役所内でも他の課が何をやっているかわからないため、情報共有の意味合いもあった。

実際、そうして作り続けた臨時広報紙は、市民だけでなく、職員にとっても貴重な情報源となった。各課の職員は、臨時広報紙のバックナンバーを頼りに情報を得ていたという。

この臨時広報紙は現在、同市公式サイトですべて公表されている(※4)。

補注

※1
3月18 日から5月7日までは日刊、その後は、毎週日曜日と月曜日は休刊とし、6月からは毎週火曜、木曜、土曜日の週3回、発行した。8月第2週からは毎週水曜日(週1回)発行に減らす代わりに、紙面をA3版両面刷り(従来の2倍)に増やし、10月まで発行を続けた。地方自治情報センター(LASDEC)の平成23年度調査研究「東日本大震災における地方公共団体情報部門の被災時の取組みと今後の対応のあり方に関する調査研究」の【現地調査報告書②――岩手県陸前高田市】より)

※2
個人ブログ「陸前高田・車屋酒場日記」より
http://blogs.yahoo.co.jp/kurumayasakaba/archive/2011/10/27

※3
陸前高田市の庁舎は、鉄筋コンクリート3階建て、一部4階建てであった。津波は市庁舎屋上にまで及び、全壊状態だったため、業務再開は不可能だった。そこで、3月12日、高台にある学校給食センターを災害対策本部とした。19日には、学校給食センターから約100メートル離れた場所に、仮設庁舎(ユニットハウス)1基目を設置。以降順次、ユニットハウスが増設された。(地方自治情報センター(LASDEC)の平成23年度調査研究「東日本大震災における地方公共団体情報部門の被災時の取組みと今後の対応のあり方に関する調査研究」の【現地調査報告書②――岩手県陸前高田市】より)

※4
陸前高田市 広報臨時号バックナンバー
http://www.city.rikuzentakata.iwate.jp/shisei/kouhou/rinji/rinji.html

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